小学校だったか中学校だったか、卒業式んとき校長先生が「諸君、『映画に誘ってみようかな、忙しいかな断られるかな、誘いたいけどやっぱやめようかな』といった思考は愚の骨頂である、馬鹿のやる事である、相手の気持なんか諸君には永遠に解らないのだ、誘いたいのなら誘わなければならない」と話した
“娘「…(ムスッ)」 私「あのさ自分の機嫌は自分で直すんだよ。誰か私の機嫌直して!みたいな態度は人を嫌な気持ちにさせるよ。でも君はラッキーだ、なぜならこのことを今知ることができたから。お母さんは気付くまで時間かかった。死ぬまで自分の機嫌を直せない人もいるぞ」 娘「今知ってよかった…」”— 瀧波ユカリさんのツイート (via windsock)
「本音」は、ごく例外的に、ごく限られたごく親しい人間同士の間で、ひそかに交換され、非公式な形であくまでもノイズとして処理されていた。
それら、深夜のスナックや、放課後の教室や、部室の暗がりでやりとりされていた「本音」は、禁じられているからこそ笑いを生み、許されていないからこそ親しい仲間をつなぐ絆になってもいたわけで、つまるところ、「本音」は、陰の存在だった。
ところが、ネット社会の出現によって、そうした露悪的で扇情的な「本音」が万人に向けて公開される場が確保されてみると、それらの膨大な量の「本音」は、「これまでおもてだって語られていなかっただけで、本当は誰もが心のうちにあたためていた言葉」であることを認められ、匿名のネット市民の間の共有財産として、無視できない影響力を発揮するようになる。かくして、「本音」は、「いけ好かない偽善者どもの眉をひそめさせる痛快至極な真実」として、確固たる市民権を獲得するに至る。
なさけない展開ではある。が、好むと好まざるとにかかわらず、世界は本音化し、われわれは、露悪化しつつある。